BruceNonの音楽のある部屋8

BruceNonの音楽のある部屋

BruceNonの音楽のある部屋

N & M活動休止
中国楽器二胡との出会い 
N & Mの活動を休止してからの僕は、暫くは仕事と家に帰るだけの行動でした。

 

この頃は今と同じ業界警備業に就いていましたので時間が自由に取れない状態でした。

 

休みの時だけ自分で音楽をやっていくしかありませんでした。

 

松本はジャズバンドで臨時活動。彼がジャズをやることに僕は反対しませんでした。

 

バンドをやる、やらない、入る、入らないは自由だし、僕も昔からメンバーを縛りつけたりはせず、今置かれている状態を自然の流れにまかせていました。

 

昔、バンドを組んでも解散していくのも自然の流れでしかたのないことだと。松本がジャズバンドでやることも、自然の流れにまかせていました。

 

警備の仕事もいろいあって、僕は現在の勤務、防火・防災管理の業務に転向するため、資格などを取り、今の仕事、勤務地に就きました。

 

この業界もいろいろ業務があり、警備、設備、清掃、防災センター要員などがあります。

 

僕が今やっているのは、防災センター要員です。ビルの防災センターに常駐し、監視カメラ、消防設備機器の点検などをする業務です。

 

夜勤もありますが、警備そのものよりは自分にあっているように感じました。

 

体力、性格なども含めて。今の勤務地は芸術的な部分もあり、ピアノ演奏会などがイベントで行われていて、普通のオフィスとは違ったイメージがあり馴染めました。

 

当時、ここのSOHOエリアに中国文化センターという会社が入っていました。

 

社長は中国人で中国の民族音楽文化を日本に広めたい考えで設立したそうです。

 

この社長さんは、程波さんといい中国、日本でも有名で活躍している人でした。

 

ここではこのビルの最上階にある劇場で司会をしていました。

 

ある日、この劇場で中国楽器の演奏会を行うことを知り、仕事の休みの時に見に行きました。

 

そこで見た楽器で印象に残ったのは二胡(にこ)でした。演奏の後、自分がここの防災センター勤務をしていることを伝えるために社長に挨拶にいきました。

 

そしてこのビルで二胡教室をオープンすることを聞き、僕は教室に入りました。

 

これが二胡との出会いでした。教師は劇場で演奏していたメンバーで、今の師匠、趙正達と王晶です。

 

趙師匠は中国で二胡奏者として有名人です。

 

二胡は日本ではあまり浸透しておらず、珍しがる人が多いです。

 

僕もその一人です。

 

今まですべての楽器を独学でやってきたのに二胡教室に入ったかといいますと、楽器そのものが見たこともなく、どう演奏していいかわからず、弾き方を習う為と、趙師匠のような有名人と接していれば、何か起きるかな?の期待があったからです。

 

教室は勤務地のビルの1階のピアノラウンジ、ここで月2回レッスンを受けました。

 

当時、二胡は持っていませんでしたので会社から1本借りていました。

 

持ち帰って練習をしていました。二胡について少しお話ししますと、Erhu ア・ルフー 2本の弦の間に弓を入れて弾きます。

 

二胡本体は木製で全面はニシキヘビの皮が貼られています。・ルフーは中国語で二本の弦ですからアーというそうです。

 

いち一がイー に二がアー さん三がサン よん四(し)スーでア・ルフーです。

 

日本には似ている楽器はなく、バイオリンみたいな感じです。

 

弓で弾くという共通点があります。

 

弓は馬の尻尾を使っています。

 

僕の新しい楽器の導入です。

 

松本がジャズで僕が中国楽器、のちに結成するLotus Flowersに大きな役割を果たします。二胡ですが初めは弓を横にスーッと弾いても綺麗に音が鳴りませんでした。

 

ギーギーと汚い音です。

 

ギターのコードと同じで初めは鳴りません。

 

なんとか弾けるようになるまでは先生の指示に従っていましたが、1年、2年経つにつれて弾けるようになってきました。

 

昔からそうですが、指示を受けて楽器を弾くのは嫌いでしたので、先生の言う教科書の練習曲はだんだん弾かなくなってきました。

 

レッスンの日には練習の成果を僕の好きな曲を弾いていました。あと楽譜が読めないことを伝え、そうゆうことで教科書の曲はやらない方向でいきました。

 

二胡演奏者のCDを買ってきて、それをコピーして弾いていました。

 

僕は先生が模範で弾く曲をあとからすぐ弾くことが出来ました。

 

下手ですがメロディは合っています。

 

あなたは音感がいいよ。といつも言われていました。

 

聴いてすぐその音を追いかけることが出来ました。

 

その時から絶対音感の事を調べるようになり勉強しました。

 

趙先生が留守の時は王先生がレッスンしてくれましたが、趙先生から僕の情報を聞いていなかったのが、楽譜を見て演奏しない僕を半分毛嫌いしていたよです。

 

楽譜を見て演奏する?ビートルズはそんなことはしていなかったぞ。

 

これがいつも頭にありました。ギターを弾いていたせいか、他の生徒さんたちより弦の指の使い方が早かったです。

 

弦を上から下にスライドさせたり、ビブラート、間違った奏法でも自分流に弾いていました。
二胡の演奏発表会にも出演しました。師匠が先に弾き、僕は一番弟子として紹介されて演奏しました。
やった曲はオリジナル曲、ドリームです。ギターでバック演奏したものを録音しておいたテープを流しながら、僕は二胡でメロディを弾きました。

 

その後悲しい事件が起きました。
東日本大震災のおかげで、中国文化センターの契約していた興行が全てキャンセルになり、経営が危うくなりました。

 

社長はここの家賃は払えないと事務所を自宅に移すといい引っ越していきました。

 

二胡教室は?しばらくはやっていましたが、会社と二胡の先生たちと契約を切り、個人でやっていくこととなり、僕の勤務地のピアノラウンジで授業をやるのはやめて、個人宅でやる形となっていました。

 

二胡教室の月謝は中国文化センターに払っていましたが、これからは先生に直接支払うわけです。

 

この体制になってから僕も教室をやめました。先生の自宅まで通うのは大変だったし、二胡は今後は自分でもやっていけると考えまして決心しました。

 

師匠たちも中国文化センターとの直接契約がなくなった訳ですからどこからか仕事をもらわなくてはいけません。

 

当時は大変だったと思います。

 

でも二人ともプロの一流二胡奏者なのでなんとか大丈夫だと思っていました。

 

今はちゃんと二胡演奏の契約を結び、二人の師匠は元気でやっています。

 

師匠たちとは今でも交流があります。

 

これも音楽の人脈なんだなと感謝しています。

 

二胡、新しい楽器を使って今後もやっていこうと思いました。こうして月日が経ち、僕も48歳になっていました。

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